あるHSS型HSP女性の人生

自分の気質を知らず子供の頃から生きづらかった日々を綴ります。

HSP女児が引き算わからなかった理由


実は、小学校入学早々、
0点を取ってしまったことがある。

それは、算数の引き算だった。

最初に習った足し算は素直に理解した。

3に2を足したら5。
だけど、3から2を引いたら
なぜ1になるのか?

3から2つ取り除いたら、いくつになる?
という『仕組み』がわからず、
イメージ出来なかったのだと思う。
先生が黒板にいくつか引き算の式を書いて
説明していたが、
先生が言っていることの『意味』が全くわからなかった。

そして、そのまま引き算の小テストをすることになってしまった。

引く、とはどういうことなのか、
全く理解出来ないままテスト用紙を前にしても、
一文も解けなかった。

テスト用紙は、出来たら前に座っている先生に
自分で持参しなければならなかった。
クラスメートが次々と先生に
テスト用紙を持っていく中で、
私だけ持って行かない訳にもいかず、
仕方なく全然出来ていないテスト用紙を
持っていった。
テストの採点は、なんとテストが終了した生徒が
みんなで先生を取り囲んで見ている中で
行われることとなった。

先生は大きな声で
「これもバツ・・・これもバツ!」
と言いながら次々とバツをつけていき、
「0点!」
と私にテスト用紙をつき返した。

引き算が理解出来なくても、
0点は全然問題が解けなかった時の
恥ずかしい点数だ、ということはわかった。

「0点だってー!」
と声が上がる中、私は席に戻って、
クスクス笑っているクラスメートの視線に
恥ずかしくて泣いた。
それを見て、何人かが私の席を取り囲んだ。
「はづきちゃん、わからなかったのー?」
と実に無邪気に聞いてくる子もいたり、
「泣かないでよー」
なんて声をかけてくる子もいたり。

その中で特筆すべきなのは、
「0点、つらかったね。
 絶対笑わないから、そのテスト見せて?」
と笑った目をして顔を覗き込んできた男の子だった。

こんなあからさまにバカにした顔をしながら、
みえすいた嘘の優しげな言葉をかけてくるヤツって
いるんだ。
私は小学校1年にして、
人が辛い思いをしていてもお構いなく
好奇心で踏み入ってくるような
下世話な人間がいることを
肌身で知ることとなってしまった。

引き算でつまづいたのを皮切りに、
算数、数学はずっと私にとって
苦手な科目となってしまった。

高校になって、数学が得意な子から
「数学なんて、暗記すれば簡単だよ」
と簡単に言われて、驚いてしまった。

さらに大人になって
映画アニメ「おもひでぽろぽろ」を観た時に、
主人公タエ子が、分数の割り算の意味が理解出来ずに
難儀する、という話に
そう、それだ!と心から同意した。

私も、分数を分数で『割る』ってどういうことなのか?
具体的にイメージする、その意味が飲み込めないと
「わかった」と言えないタイプだった。
タエ子は、算数が得意なお姉ちゃんに
とにかく教わった通りに覚えればいいんだ、
といった感じで怒られていたが、
私もずっとそれが上手く出来ずに生きてきた。

ちなみに、
しばらく『おもひでぽろぽろ』は観ていないので、
このエピソードについて検索してみたら、
タエ子のこの疑問について
「少しひねくれた性格」があらわれたエピソード、
と書かれているのを見かけて、苦笑してしまった。
『普通』の子供なら、そんなことまでこだわらず、
言われた通りに計算していれば出来ることだ、と。

そうだ。
その『普通は〜』に当てはまらないと
すぐ言われたのが
「ひねくれている」「素直に、はい!と言えない」
それが出来ない自分は、
とてつもなくダメな子なんだ、と思わされてきた。
普通に、みんなが出来ていることは
当たり前に出来ること。

それが出来ない子供というのは、
本当に生きづらい世界だった。

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20230807162951

なぜHSP女児は花火を見て泣いたのか?


先日、花火大会に久しぶりに行ってみた。
HSPは人混みに疲れやすいので、
どうしようか迷ったのだが、
美しい花火を直に見られる機会も貴重なので、
思い切って足を運んだ。

人出は多かったものの、
ウキウキした人たちの気持ちが伝わってきて、
やはり来て良かったと思った。

最初の打ち上がる音がして
夜空に次々と大きな花火があがると、
同時に子供の泣き声が聞こえてきた。

あぁ、そういえば、小さい頃は
大きな花火の音に怯えて泣いていたな。
私は思い出した。

大人になっても、間近で見る花火の音は
ドーンとお腹の底に響くのだから、
小さな身体ではますます音が響くのを感じて
怖かった。

そして、感じていたのは、
花火が散った時の「火の粉の先」。

実は、大人になった今でも、
頭上に大きな花火が開いた瞬間、
その先の「火の粉の行き先」を想像して
ちょっと怖くなる。
だけど、花火がすぐ目の前に迫っているようで、
実際はもっと距離がある、
と頭ではわかっているから、
少し怖さを感じながらも、
花火の美しさを楽しんでいられる。

子供の頃は、
自分の気質や色んな知識を知らずに
色んな恐れに翻弄されたことが
本当に多かった。
「他の子は誰も泣いてなくて、
 みんな楽しんでいるのに」
そう言われて、
自分だけが反応が違うのがおかしいんだ、
と思っていた。
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20230804140208

笑顔でシンデレラをイジメた女の子


ここまで幼い頃の辛い思い出ばかりを綴ってきたが、
HSS型HSPならではのアクティブな一面が
よくあらわれていた思い出がある。

私は父の転勤の都合で、
幼稚園を4回転園している。
その中のひとつが
カトリック系の幼稚園で、
クリスマス会は盛大な行事だった。

みんなで頭にお星様の飾りをつけて踊ったり、
お芝居の舞台もやった。

私の入っていたクラスでは、
『シンデレラ』をやることになり、
私は、シンデレラの継母役をやることになった。
背が高かったから、大人の役が良い、
という起用理由だったらしい。

私はすごく嬉しかった。
本番まで稽古を重ねたのだが、
とても張り切って取り組んだ。

ところが、私は嬉し過ぎて、
シンデレラをこき使う意地悪な継母のシーンなのに
ずっとニコニコ笑っていた。

先生は私に
「はづきちゃん、『ママハハ』は
 シンデレラに厳しく怖い顔をしていないと
 いけないの」
と何度も言い聞かせた。
シンデレラに怖い顔で掃除を言いつける
継母の絵を見せながら、話してくれたのを
よく覚えている。
絵本ではなく、文章が多い本で、
白黒のデッサンのような1ページが今も記憶にある。

それなのに、
どうしても「お芝居」になると
嬉しくて笑ってしまう。
「はづきちゃん、笑っちゃダメよ」
先生に何度も言われながら、
クリスマス会の本番となった。

私は、手芸が好きだった母の編んだ赤いケープを着て、
シンデレラの継母として舞台に登場した。

たくさんの人が見ている中で、
私は張り切って舞台に登場すると、
シンデレラ役の女の子を後ろに従えて、
「シンデレラに家事を指図する」シーンを
舞台の端から端まであちこちを指差しながら
満面の笑顔で走り回った。

のちに母が言うには、
舞台の端から
「はづきちゃん、お口閉じて、お口!」
と言う先生の声が響いていたらしい。

私も先生の声は耳に入っていたが、
舞台に出る嬉しさが抑えられず
ずっと笑い通していた。

おかげで、心底嬉しそうに笑いながら
シンデレラに家事を言いつける継母、という
すごいシーンになってしまった。

その後も、舞踏会のシーンでは、
一緒に踊る女の子と
「ここは2人で一緒にターンしよう!」
なんて決めてダンスシーンを楽しんだり、
のびのびと人生初めての舞台を満喫した。

シンデレラが王子様に見初められようが、
ガラスの靴がシンデレラの足に合おうが、
継母の娘がお妃様になれなかった結果になろうが、
同じ舞台のシーンは
全然見てもいなかった。

最初から最後まで
ずっとニコニコ嬉しそうに笑っている、
という「シンデレラ」というお話の流れを
全く無視した継母だった。
だが、私にとっては心から楽しかった出来事として
思い出に残ることとなった。

のちに中学校に入る時に
部活動に「演劇部」の文字を見つけて
胸がトキめくことになるこの女の子は、
元々こういうことが好きだったんだなぁ、と
改めて思う。

その人物の気持ちになりきって表現する、
という演技センスは全然備わってなかったようだが…
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20230729184925

初めて好きな色が出来た瞬間


私の好きな色はピンク色なのだが、
ピンクに惹かれた瞬間を
今でもよく覚えている。

その頃に幼稚園で仲良くしていた女の子とは、
「私たち、赤色が好き同士だよね」
と言い合っていた。

女の子の色は赤、
男の子の色は青。

まだそんなイメージが
なんの疑問もなく言われていた頃だった。

私はその「女の子色」とされる赤が好きなんだと
その時まで思っていた。

その当時通っていた幼稚園は、
カトリック系だった。
クリスマス会には、
色々なお遊戯やお芝居など
たくさんの催し物があった。
そのクリスマス会の前に、
幼稚園のクラスでひとり一本のロウソクが
配られることになった。

両手に包めるくらいのカゴには
色とりどりのロウソクが入っていた。
そのカゴを、輪になって椅子に座っていた園児が
ひとりずつ一本ロウソクを取ってから、
隣の子に回した。

私にそのカゴが回ってきた時、
赤のロウソクも何本か入っていた。
私は最初、迷わず赤を手にしようとしていた。
だがその時、ピンク色のロウソクが目に止まった。
パステルピンク、といった感じだっただろうか。

なんてきれいな色。
このピンクのロウソクが
私は絶対に欲しい、と思った。

私はピンク色のロウソクを取ると、
カゴを隣の子に渡した。

私と仲良かった女の子は、
その隣の更に隣に座っていて、
カゴが回ってきた時に
「はづきちゃん、どうして赤にしなかったの?」
とむくれた顔をして言ってきた。

その子はきっとそう言うだろうな、
と思っていた。
だけど、その友だちから文句を言われることになっても、
私は綺麗なピンク色のロウソクを自分のものに出来て
本当に良かったと思った。

その日以来、私はなにかを選ぶ時に
ピンク色のものを手に取るようになった。
それは今でも変わらない。
あの時のロウソクのようなピンク色を
どこかでいつも探しているけれど、
あれほどの透明感あるピンク色と同じ色を
見つけ出すのは、なかなか難しい。

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20230728174837

怒ったら怖かったのは父だった


真面目な母は、
時々周囲から、子供に厳し過ぎでは?
と言われることもあった。

一方、父は明るくて冗談も好きなので、
周囲からも楽しい人だと
親しまれていた。
私もそんな父が好きで懐いていた。

だが、心の奥底で
怒らせてしまったら母よりも怖い、
と感じていたのは、
こんなことがあったからだった。

その頃は、幼稚園生か、
小学校入りたてだったかもしれない。

バレーボールのボール遊びをしていた時だった。
HSPで過敏な感覚を持つ私は、
硬いボールを手首で受け止めたりするのが
痛くて苦手だった。
その痛い感覚が嫌で、
積極的にボールを受け止めようとしないでいると、
父が突然怒って、
「もう出来ないんだったら、いい!
 勝手にしなさい!」
と私を放って行ってしまった。

置いていかれる、と思った私は
あわてて父についていって、
家に帰った。
しかし、怒らせた父とは気まずく、
話も出来ないまま、
父と一緒にお風呂に入ることになった。

まだ父に身体を洗ってもらっていたのだが
(今考えると、もう自分で洗える年頃だったのではないかと思うが)
黙って立ったまま身体を預けている私に、
父は静かな口調で少し笑みを浮かべながら言った。
「はづきはバレーボールもちゃんとできないんだね。
 そんなはづきは、お父さん嫌いだ」

私は声をあげて泣いた。
出来ない私は、父に嫌われてしまうんだ。

父に好かれるには、
色んなことを出来ないと言ってはいけないんだ、
という思いが深く残った。

お風呂場で父にこう言われた、など
私には決して母に言えなかった。
言っても、母に
「お母さんだって、お父さんと同じよ」
と言われるのではないかと思った。

のちに、父の妹である叔母が、
「お兄さん(私の父)は、
 家族に対する要求が高い人だったから」
と言っていたことがあった。

母は、人前での振る舞い、行儀に厳しい人だったが
父は、子供なんだからそこまで厳しくする必要ない、
と言う人だった。

だが、自分の考えが「普通」と
実に無邪気に単純に思う人で、
自分はこう思うんだから、こうして欲しい、
自分はそういうのは嫌だから、やめて欲しい、
というのが「押し付け」なんて
微塵も思わない人だった。

何事も深く感じてしまう気質の私は、
大人になるにつれ、
厳しいと評された母よりも、
こういったタイプの父の方が苦手になっていった。

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20230727123931

誰にも言わなかった両親の喧嘩

父と母は仲の良い夫婦だった。
3年前に母が他界した時は、
父親がひどく寂しがって、
私は母を亡くした寂しさに浸る暇も
なかったほどだった。

だけど、
そんな両親にもさまざまな紆余曲折があった。
そして、当人同士以外は、
兄も知らない、私しか見ていない
夫婦喧嘩があった。

幼稚園の頃、父の実家に住んでいたことがある。
父方の祖母は、
孫である私にはとても優しかったが、
嫁に対しては非常に厳しく、
母は語り尽くせない苦労をした。

ある夜、両親が言い争う声で目が覚めた。
あの騒ぎに全く兄が関わっていないことを思うと、
兄だけは別室で寝ていたのだろうか。

父は普段は朗らかな人間だったが、
その時は怖い顔と声で母と争っていた。

やがて、私が目を覚ましたことに気づいた母は
「見なさい、大きな声を出すから
 はづきが目を覚ましたじゃないの」
と涙ながらに言った。

それでも2人の言い争いはおさまらず、
やがて母が
「はづきを連れて出ていきます!」
と言い、私は母が着替えさせるままに
寝巻きから普段着になった。

そして、母が私の手を引こうとした時、
父が素早く私を抱いて、母から引き離した。
母が「やめてよ!」と私を奪い返そうとする。
すると父が私を抱いたまま遠ざける。
父の顔は今まで見たこともない恐ろしい顔で、
私は怖くて泣き出した。
母は「やめて!はづきが死んじゃう!」と
言って泣く。
母の泣き叫ぶ姿が辛くて、
私はますます泣き声をあげた。
でも「けんかしないで」と声をあげることは
出来なかった。
ひたすら直面した恐怖に泣くしかなかった。

あまりに私が泣くせいか、
やがて父は私をおろした。
私は母に手を引かれて、
玄関で靴を履いて暗い外に出ていった。

だが、父の実家を出て
すぐの横断歩道に立ち止まった時、
手を繋いだ母が言った。
「はづきごめんね。家に帰ろう」
そこは歩いて1分もしない場所だった。

家に戻って、再び布団に入った私は、
両親が遅くまで話し合っている様子を
静かに眺めていた。
もう感情的に言い争う様子はなかった。
その時に、父親が大きなオナラをしたことまで
よく覚えている。

翌朝以降、両親はいつも通りに戻った。
でもあの頃の母の辛さは
全く解決した訳ではなかった。
その詳細を私が知ったのは、
成人になってからだった。

母は本当にさまざまな苦労を抱えて
耐えて生きた人だった。

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20230726144455

母の寂しさを察知して泣く女の子

前回の記事に
幼い頃、母から言われた言葉を書いたけれども、
そんな日々ばかりではなかった。
(↓前回記事はこちら)
hazuki-hsshsp.hatenablog.com

幼稚園であった出来事を(もちろん鉄棒の一件以外だが)
帰宅して母にひととおりおしゃべりしたりした。
母が夕飯の支度に忙しい隣で
ベラベラと話し続けて、
母は相槌打つのが大変だったらしい。
母の忙しさは残念ながら感じ取れなかったらしい…

幼稚園に通い始めた頃、
登園して母が私に小さく手を振りながら
去っていくのを見送る時、
母の表情にちょっと寂しさを感じ取り、
悲しくなってしまって大声で泣き出してしまった。
のちに母が、幼稚園生になりたての頃は、
幼稚園に預けた後に買い物などで
手を引く私がいないことに
少し寂しさを感じたりしていた、
と話してくれて、
幼い頃の私が感じたのは勘違いではなかったと思った。

ただ、母親としては、
娘が泣き出したからといって
連れ帰る訳にもいかず、
先生に「大丈夫ですから、お母さん行って下さい」
と言われたことにホッとしたらしい。

真面目にテキパキと日々の家事をこなしていた母は、
時々苛々が募って、怒りが大爆発して、
ずっと怒っている時もあった。

だけど、一生懸命自分を育ててくれる母のことが
私は好きだった。
だから、母に嫌な顔させたくなかった。
何事も一生懸命やり、
時々辛さに耐えかねるように泣き出す母を
悲しませたくなかった。

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20230725143422